掃除、洗濯、炊事、買い物など・・・
心地よく生活するために必要なことをまとめて「家事」と言います。
生活する上で「やらないと困ること」であるのは間違いありません。
掃除をしなければ家はどんどん汚くなるし、
料理をしなければ肉は生肉、野菜も生野菜、米はコメのまま、
洗濯をしなければキレイな洋服を着ることができません。
しかし家事とは「やらなくて済むならやらない方がいいこと」「手抜きしてなんぼ」だと思います。
それはなぜか?
今回はその理由を徹底的に解説したいと思います。
家事にかける労力・時間を減らしたい5つの理由
タスクが多い
とにかく「やるべきこと」が多く、手間と時間がかかります。
個別にみたらほんの数分、10分や20分で終わることかもしれません。
しかし数があまりに多いので、アレもやってコレもやって…としているうちに、気付いたらもうこんな時間?!なんてこともよくあります。
そんな数ある?と思うかもしれませんが、あります。
一言に「家事」と言っても、料理、洗濯、掃除といったわかりやすいものだけではありません。
「名もなき家事」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。
トイレットペーパーを買い足す、ゴミをまとめる、靴を磨くなど、家事だと認識しにくい家事たちの総称です。
雑誌「AERA」でも特集が組まれていたこともあります。
こまごまとしたやらなければならない、でも気付かれにくい、小さな家事たち。
チリも積もれば山となり、少しずつ時間を圧迫してくるのがこの「名もなき家事」です。
さらにこれが子どもの相手をしながら、となるともう進まない。
ひっきりなしに話しかけてくる、泣く、足にまとわりついてくる子どもたちの相手をしながらいろんな用事を片付けていく・・・
あっという間に時間が過ぎていきます。
だからひとつひとつのことに時間をかけていられません。
だからこそ、やることを減らす、小さなひと手間を省く、効率化する、そういった小さな積み重ねが重要になってきます。
賃金が発生しない
どんなに一生懸命、心をこめて、手間暇かけて、時間をかけて家事をしても、
基本的には1円にだってなりません。
がんばって節約テクを駆使すれば、お金を減らさないことはできるかもしれません。
ですが、家事そのもので使えるお金を増やすことはできません。
言ってしまえば家族・家庭に対する無償奉仕です。ボランティアです。
仕事で言うところのサービス残業です。
本当に心から家事が好きで、家族のためになにかをすることが大好きで、一切苦にならない!というならば問題はありません。
好きでやっているんですから。
でもこの記事を読んでいる方はきっと違いますよね。
どんなに一生懸命仕事をしても給料がもらえなかったら、どう思いますか?
嫌ですよね。
家事も同じです。
「ボランティア」「サービス」は自ら進んでやりたい!という場合以外は「やらなくても良いもの」なはずです。
ところがそれが「家事」という名前がついた途端に「やるべきこと」「やらなければならないこと」「やって当然のこと」「手を抜いてはいけないこと」のように感じてしまうのは不思議です。
「賃金が発生しない」という点に関して言うと、専業主フとして配偶者の方との話し合いの結果、役割分業として家事を担っているとしたらまた少し話は違うかもしれませんが・・・。
その点は2016年秋にTBSがドラマ化した「逃げるは恥だが役に立つ」
わたしも原作コミックを読みましたが、「仕事としての家事」というテーマについてかなり考えさせる内容になっていました。
ドラマも星野源と新垣結衣が主演でかなり人気があったようですね。ムズキュン。
「家事」について少しでもモヤっとする方は一度読んでみると良いかもしれません。
でも仮に「仕事=家事」だったとしても、手間を省くことも効率化することも悪いことではないはずです。
(むしろ仕事で無駄も省かず効率も悪いままの人って、「仕事ができない人」扱いされますよね・・・)
「家事が大好き!」ではない限り、やることさっさと終わらせて、自分の好きなことに時間を回した方が有意義であることは間違いありません。
マイナスをゼロにする作業が多い
家事は
- 汚れたものをキレイにする
- 散らかったものを片付ける
- なくなったものを補充する
など「マイナスをゼロにする作業」が多いと言われています。
ゼロとはつまり「あるべき基準の状態」です。
すっきり片付いた部屋、洗われた洗濯もの、すぐに使用できる状態の洗剤。
このような「普通」「いつも」の状態をキープする作業=家事です。
つまりどんなに家事をやっても「いつも」の状態になるだけの場合がほとんど、と言い換えることができます。
私はこれが家事労働の最悪の欠点だと思っているのですが、その理由がこちらです。
- 成果が見えにくい
- 達成感が得にくい
- 他の人に気付かれにくい
- 他の人に評価されずらい
- やっていない時はすぐにわかる
太字・赤字は特に嫌なポイントです。
「いつも通りのもの」というのは意識されにくいものです。
それが普通だから、認識されません。
逆に「いつもとは違うもの」というのは意識に入ってきやすい、つまり気付きやすいのです。
「いつもキレイな部屋」がいつも通りキレイだったらなんとも思わないでしょう。
でもそれがある日、散らかっていたらどうでしょうか?
「今日は散らかっているなぁ」と思いませんか?
逆にいつもの部屋が散らかっていたら、片付いている日は「今日はキレイだなぁ」となるわけですが。
これの何が問題なのか、いまいちピンとこない方は想像してみてください。
「どんなに頑張っても成果がわかりにくく評価もされず、その割にやってない時は注意される仕事ですが、毎日休みなく取り組んでください。」
と言われたらどうでしょうか?
正直そんな仕事やりたくないと思いませんか?
家族間の共感を得にくい
先ほど述べたように家事は「マイナスをゼロにする作業」が多いので、家事をした当事者以外の人が気付きにくいです。
つまり共感が得にくいということです。
例えば「だれも感謝なんてしてくれない!」という怒りを聞くことがあります。
これは、感謝をしているしていないの問題ではなく「そもそもやったことに気付いていないことが多い」という残念な事実があります。
例えば「〇〇の掃除をしたよ」と言われて初めて、
(そういわれてみればキレイになっているな!)と気付きます。
そうしてようやく「ありがとう」という言葉が出てくるのです。
また「そもそも家事をしたことに気付かない」くらいですから、家事に対する労力が想像しにくいという問題も抱えています。
どれだけのことを、どれだけの時間をかけてやっているのか。
なにがどれだけ大変なのか。
ほとんどの場合はやった本人しかわかりません。
「大変だったね」「ありがとう」といったねぎらいや感謝の言葉は、共感しないと出てきません。
成果や結果がわかりにくく、その過程すらもわかりにくいものに対して共感するのはなかなか難しいと思います。
また料理・皿洗い・洗濯など、はたから見て成果も労力もわかりやすい家事もあります。
しかし毎日同じ人がやってると、特定の人がやる、という状況に慣れてしまいます。
慣れると「いつも通りのもの」に対して意識が向かなくなります。
「あの人がやって当然のこと」「自分がやることではない」
という認識になってしまうんです。無意識に。
さらに「自分がやるかもしれないこと」という当事者である意識が全くなくなります。
当事者である意識がなくなるとどうなるのでしょうか?
例えば皿洗い1つとっても、
この場合、どちらの方が家事労働に対して共感、感謝が生まれるでしょうか?
あきらかに前者ですね。
協力を得にくい
また成果や過程がわかりにくく、しかも人によって基準が異なるが故に協力も得にくいという問題も発生します。
たとえば「部屋の片付いた状態」の基準は各家庭ごと、さらには個人によって異なります。
また一言に「掃除」と言っても、
「片付け・掃除機をかける・拭き掃除をする」までが掃除だと認識している人と、
「掃除機をかける」ことが掃除だと認識している人では、「掃除をした」結果が異なります。
家庭内での「家事」の基準というのは、主にその役割を担っている人の方法・結果が基準になることが多いです。
例えば普段は妻がしている掃除を、夫に「掃除をしておいて」と頼んだとします。
妻の中では「散らかったものを片付けて、掃除機をかける」ことが掃除という認識。
夫の中では「掃除機をかける」ことが掃除という認識。
夫が散らかったものをそのままに掃除機だけかけたところで「やったよ」と妻に報告するとどうなるでしょうか。
妻からしてみれば「全然終わってないじゃない!」となるわけです。
しかもここに普段からやっていればわかるコツやポイント、効率よくやる方法などが入ってくると、他の人にはもうわからない。
逐一指示をすれば良いのかもしれませんが、タスクの多い家事すべてを指示できるのかというと、現実問題として難しいと思います。
そして
と、お互いに不満が残るという残念な結末に。
また前に述べた「名もなき家事」なんて特に「目にみえにくく、わかりにくい」ものの代表格です。
ある程度、家事を主体的に行っていないと存在自体に気付くことすらありません。
この「名もなき家事」を他の人に協力してもらおうとすると、ほぼ間違いなく逐一の指示が必要だと思います。
最終的に「自分でやった方がはやいし・・・」というように、全て自分で抱え込んでしまうことにもなりかねません。
こうしてどんどん家事負担が家族内の一人に集中していってしまうのです。
とにかくストレスがたまる
ここまで見てきた理由たちでわかるかと思いますが、とにかくストレスになります。
- 量が多くて終わらない。時間が足りない。
- お金にもならない。
- 成果が見えにくく達成感もあまりない。
- 評価も感謝もされにくい。
- 協力もしてもらいにくい。
こんなのもう正直やりたくないですよね。
やりたくないけど、やらないと困るから、やっているだけです。
やらなくて済むならやりたくないんです。
でもやっている。だからストレスがたまる。
だから他の家族がやっていなかったら、ストレスになる。
「どうして自分ばかりが」と不満がつのる。
溜まったストレスは怒りに変わり、他の家族にぶつけます。
そうすると相手も不快になって、喧嘩になって、家族の雰囲気が悪くなってしまいます。
そんな経験、している方も多いのではないのでしょうか?
ならば家事を「分担すること」が正解なのか?
家族の生活に必要だから、「やらないと困る」から家事をしているのに、
その家事が原因で家族の雰囲気が悪くなるなんて本末転倒です。
では家事の負担が平等ではないから喧嘩になるのだとしたら、それぞれが納得できるような割合で分担すれば良いのでしょうか?
それも1つの答えだと思います。
そこにある仕事を、家族が納得できるように分担する。
そしてみんなが感謝の気持ちを持って、ねぎらい合いながら生活する。
正直、それが理想ではあります。
ただし「本当に全員が納得できる分担」にたどり着くことができる家族がどれだけいるのかな、と思います。
前にも述べた通り、「家事」は見えにくく、わかりにくいです。
「自分がやっていること」はしっかり認識できますが、「相手がやっていること」は見えにくいのです。
「本当にこれが平等なのか」もわかりづらい上に、家事をやること自体に対するストレスは持ち続けます。
最近では家事などのタスクを可視化して、分担して、ストレスを減らす術なども取り上げられつつあります。
それも非常に有効な手段だと思いますが、やはり向き不向きがあるんですね。
私は「可視化する」段階で面倒になってしまい、挫折しました。笑
そして当たり前ですが「何でストレスがたまるのか」も、人によって違います。
1つ例を挙げましょう。これは我が家の「皿洗い」についての場合の話です。
基本的に私が毎晩皿を洗っていましたが、時々主人が代わってくれました。
しかし私は「シンクに洗い物がたまっている状態」が好きではありません。
(しかも我が家には猫がいるので、早く片付けないと排水溝にたまっている生ゴミを漁ったりするという問題もありました)
そして旦那がなかなか動かず、結局しびれを切らした私が皿を洗うこともありました(笑)
こうした小さな性格の違いや感覚のズレから、結局ストレスが溜まってしまうということもあります。
「ずぼら」が出した答えは「なるべくやらない」
ここで私が出した答えは「なるべくやらない」です。
ここまで読んできた方はわかると思うんですが、とにかく家事をしたくないんです。
やらないと困るからやるんですが、やらなくて済むならやりません。
もし主人が代わりにやってくれるとしたら大喜びです。
でも、本質的なところを言うと「主人もやりたくない」んです。
(本人も家事は嫌いだし苦手だと言っていました。)
以前は私も主人に対して不平不満を持っていました。
どのご家庭でもよく聞く話です。
実はこれは表面的な怒りであって、根本的な原因はこうでした。
「自分だってやりたくない家事をやっているのに、この人はやってなくてズルい。好きなことをしていてズルい。不公平だ。同じようにこの人も苦労すべきだ。」
冷静に考えると恐ろしいですが、本当にそう思っていたんです。以前は。
でもこの「同じようにこの人も苦労すべきだ」という考え方って、誰も幸せになりません。
自分が嫌だ嫌だと思っている、不幸せの状態に相手を引きずり込もうとしているんですから。
自分がやりたくなくて、相手もやりたくないことを「やれ」というのは・・・
・・・まぁ、正直あまりいいことじゃないかな。と思いました。
もちろん本当にどうしようもない、「やらなきゃいけない」部分はあります。
子育てなんか特に、下手すると生死に関わってしまいます。(食事とか衛生面とか)
でも、それ以外の部分はやらなくて済むようにすれば「やらなくていい」んじゃないか?
そうすれば私も幸せ。旦那も幸せ。
機嫌よく過ごせれば家族全員が幸せ。
家事が原因で八つ当たりすることもされることもなく、喧嘩になることもない。
理想じゃないですか、これ。
だからこそ私は、やりたくないことは「なるべくやらない」ことを推奨します。
まとめ
今回は家事がストレスになる、やりたくない理由を5つ挙げてみました。
- タスクが多い
- 賃金が発生しない
- マイナスをゼロにする作業が多い
- 家族間の共感を得にくい
- 協力を得にくい
そして家事がストレスになるのであれば、家族内で分担するのもひとつの手ですが
本サイトでは「なるべくやらない」ことを推奨します。
誰もやりたくないなら、やらなければいい。
そうすることで「家族全員がストレスフリーになる」のであれば、それがベストアンサーです。
排除できるストレスは排除するべきです。
「苦労が美徳」なんて嘘。
しなくて済む苦労なら、しない方が絶対に良いと思います。
家事の手抜きも効率化も、「家族が機嫌よく過ごす」ための手段です。
だからと言って、「家事をまったくしない」ことは不可能です。
だからこそ「なるべくやらない」。
自分が無理なくできて、自分や家族が納得できるライン。
それ以上の家事はしない。
そうすることで、普段の生活がグンと楽になります。
今後は、具体的にどうやって効率化、手抜きをしていくかを発信していきたいと思います◎